藤本光一郎(ふじもとこういちろう)

私は誰から何を習うのかで人生は大きく変わってしまうと考えています。
ゴルフも同様で、あなたのゴルフ人生をバラ色にするのも茨の道にするのも、誰から何を習うのかに大きく左右されると考えています。
なので、私のこれまでの人生を少しご紹介します。
かなり長いですが、お読みいただければ幸いです。
1964年3月10日、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)に生まれる。
3歳のときに埼玉県川越市に転居。
目の前に小学校の門があるという絶好の立地の実家で育つ。もちろん学校から帰ったらランドセルを玄関に放り出しサッカーやソフトボールに興じる典型的な昔の小学生。
小学校6年ではその年全国優勝を飾った与野下落合チームと雨中の県大会、延長、PK戦の4人目のキッカーとして登場。一人だけはずして敗退。
中学でもサッカーを続けたいと願うもサッカー部が存在せず、越境入学を試みるも、教育委員会に発見され断念。
それなら中学では脚力を鍛えようと陸上部に入部。中学3年で全国中学で走り幅跳びで6位入賞。それでもサッカーへの気持ちは冷めず高校に入学後サッカー部への入部を希望も、陸上部の監督とサッカー部の監督に結託に阻まれ陸上部に入部。
国体で走り幅跳び、4x100mリレー4位。
1982年早稲田大学教育学部に入学。同時に競走部(陸上部ですね)入部。当時はまだ瀬古氏を育てた中村監督が在任しておられ短距離、跳躍選手にとっては大変な環境。そんな中、足首の靭帯を損傷、選手生命を絶たれる。
先輩から「マネージャーになれ」と言われるも、競技をしに入部したのだから丁重にお断りし、退部。以後数年にわたり若気の至りの学生生活を送る。
大学2年から始めたスキーが高じて3年の冬から磐梯クナイスルスキースクールでインストラクターを始める。
大学4年の卒業論文でゴルフスウィングの分析をしようと思いつき研究をしてみるとレッスン書やゴルフ界で言われていること(未だに同じ事が手を変え品を変え言われ続け、ゴルファーを惑わせ続けているのは悲しいことですが・・・)を否定する結果ばかりになり、どうしてももっと「本当のところ」が知りたくなり大学推薦で決まっていた、某広告代理店への就職をお断りしてアメリカへの留学を決意。お世話してくださった先生方、後輩の方々、ごめんなさい。
1986年早稲田大学教育学部卒業。
久津間幸雄氏のゴルフショップが実家から近かったためアルバイトをしながら留学の準備をする。
1987年渡米。
UniversityofIllinois,Urbana-Champaign校Kinesiology学部に入学。Biomechanicsを専攻。
ChicagoのO’Hare空港からUrbana-Champaign空港へプロペラ機で向かう。到着すると荷物が見当たらない。
初めて訪れる土地で、当時はまだナイーブだったのでかなり不安な思いをする。輪をかけて、寮の手配をしてあったはずが、それも無く、結局空港からのタクシーの運転手さんに紹介してもらい、街のモーテルに1ヶ月以上居住することに。
当然、食事は外食、でも、部屋の掃除はしてもらえたから今思えば、結構楽ができました・・・
その後、シリア人とアルジェリア人のルームメイトとともに3ヶ月間アパート暮らし。キャンパスから徒歩10分以内というラッキーな条件、と思っていたら、キャンパスが広くて結局自分の研究室に行くには40分近くかかることが判明。もっと、調べればよかった。それでも、モーテル暮らしよりは快適だった。
今、思い出すに、そのアパートには私以外は皆イスラム教徒の方々が居住していました。もちろん、皆さん、朝晩のお祈りは欠かさずなさってました。最近イスラム教絡みの様々なことが起こりますが、彼らの言い分も非常に理解できるのです。あれは、なかなか良い経験でした。
あの頃は、まだまだアメリカの状況を知らず、サンクスギビング(感謝祭)や、クリスマスには店という店が全て閉まってしまい、食料調達にあせりを感じた。車も持たず、移動手段は自転車とバスのみ。$30で購入した中古の自転車も購入後約1ヶ月で盗難にあい、徒歩に頼ることに。
Urbana-Champaignは夏から冬へと(2週間くらいの間に)一直線に向かい、寒くなると、何かで口をカバーしないと呼吸もできないくらいに寒かった。5分外を歩いては5分建物の中で温まりまた5分気合を入れて歩く。それでも、そこで生活するのが大好きな人たちも居た。そろそろ寒さに身体が悲鳴を上げ始めた半年後、担当教授の転勤とともにCorvallisという人口4万人弱の街にあるOregonStateUniversityに編入。
オレゴン州のシステムは変わっていて、州内ならばどの大学で講義を受けても、それが単位変換できるというものだ。教授の勧めで、同じ分野でも様々なアプローチがあるからできるだけ多くの教授から学んだほうが良いとの助言を受け、1時間南のEugeneにあるUniversityofOregonにも週に2度通い学ぶ。
このとき、心のそこから、大学時代にもっとちゃんと勉強しておけばよかったなと、後悔した。本当に後悔先に立たずだ。
その当時は、ナイキやアシックスのスニーカーの研究開発を手伝わせていただきました。修士論文はランディング動作において、人間が物理的負荷を与えられた場合ニュートンの法則に即した反応をするのか、神経系のコントロールにより異なった衝撃吸収の方法をとるのかを検証。
修士修了後、半年間コロラドスプリングスのUSOC(アメリカオリンピック協会)トレーニングセンターにて研究活動にいそしむ。このとき、メンタルトレーニングのすさまじい発達を垣間見た。科学を科学で終わらせず、実際の場面にフィードバックして活用する。これぞ科学の真髄だと感じた。残念ながら、こうしたことはゴルフでは現在でも一切行われていず、似非科学的な”薀蓄”が常識としてまかり通っているのは嘆かわしいことです。
25歳の時に、母方の姓「藤本」を継承し、戸籍上金谷光一郎から藤本光一郎になる。父、祐二は長男、母は一人っ子なのだ。これって、祖父が養父で、両親が義理の兄姉で、兄姉が甥っ子と姪っ子ということ?
1990年、再びOregonStateUniversityに戻り、博士課程へ入学。
Biomechanicsのみならず、スポーツサイエンス全般を学び統計学、機械工学、エルゴノミクス、コンピューターサイエンス、コーチング、教育学等など、多くの周辺分野を学ぶ(学ばされる・・・か?)。
おかしなもので、初期にはいろいろなことが分かって勉強が面白くて仕方が無い。
それが過ぎると「俺ってなんて知らないことが多いのだろう」と悩みながらも、またまた勉強が楽しくなる。不思議な感覚だ。
博士課程在籍中、スポーツ心理学やモーターコントロールの研究室の方々から一緒に研究をしようとのオファーを受け(統計学やコンピュータプログラムを書くのが得意だったのでデータ分析やその他で有用だったのだろう・・・・・)Biomechanicsと他分野を組み合わせた研究を多数実施。今考えると、こうした学際的な研究を頻繁に行ったことが、様々な分野を包括的に考慮する方法論の必要性を感じることのきっかけになったのだと思う。机上の理論では分けることができても、実際に人間が実行するためにはすべての要素を包括した最大公約数的要素を考慮しない限り、全くと言ってよいほど役に立たないことが多いのが現実なのである。
まあ、プログラミングでデータ分析の速度を何十倍、何百倍に上げたからといって、決してリサーチアシスタントやティーチングアシスタントの時間ができるわけでもなく、担当教授はこれ幸いとばかりに他の仕事までを私たちに与えてくれたのでした。だから、途中からはプログラミングのことは秘密にして時間だけを作るという応用を、もちろんみんなで結託してしたものだ。
あの頃は、周りにみんな博士や博士になろうとしている人ばかりがいっぱい居て、今になってみても何と質の高い集団だったんだろうと思う。
実は、私は決してゴルフだけが専門ではないのだ。アメリカに在住中様々な研究をした。スポーツと骨密度、骨疎髭症との関係、マウンテンバイクの「ロックショックス」の開発、衝撃吸収インソールの開発、バランス機能の測定器「バランスマスター」の開発、ハイヒール歩行動作の研究、腰痛や握力など、判別の難しい労災問題を解決するための研究。有名なUPSのパッケージに「Heavy」などのマークを明確に入れ、労災を減少させるきっかけになったのは私たちの研究だ。
サイバービジョン・ゴルフ・インストラクション・ビデオの有意性の検証。マラソン選手やクロスカントリースキー選手の動作分析、などなど、様々な動作の分析に関与。
博士論文の題材には、かねてから興味のあった、ゴルフスウィングの分析を選択。分析が余りにも困難なため周囲からの「やめろ」との助言も聞かず、敢行。
日米のエリート・プロフェッショナル・ゴルファーの共通要素の定義に挑む。
実際に始めてみると「やめろ」の助言の意味をひしひしと感じる毎日と直面する。何しろ分析するツールが存在しない。分析する統計的手法が確立されていない。しかし、リサーチ論の講義で尊敬する教授がおっしゃった「既存のツールを自分の研究の制約にするな」とのお言葉をまともに受けて、新しい統計的手法の確立と分析ソフトの作成に日々を費やす。何とその間約2年。でも、やればやれるものだと改めて実感する。
実際に論文をプロポーズし実施する前にPreliminaryExamと呼ばれる大学院で履修した全てのクラスをカバーする16時間の筆記試験と8時間の口頭試問をクリアしなければならない。
過去には、このPrelimを3回失敗し、それまでの苦労が水泡となった学生も少なくないと聞く。Purepressure!
またまた、勉強すればするほど知らないことが見えてきてどんどん不安になる日々を過ごす。
でも、人生であんなに勉強をする日々はもう訪れないだろうな・・・・・なにせ、1日18時間ぐらい文献に向かい合っている日々が何ヶ月も続いたのだ。
PrelimExam第1日目、Majorはスポーツサイエンスだったが、Minorが統計学だったのでもちろん統計学からの出題もある。
一人ぼっちの部屋に押し込まれ、問題用紙に向かって孤独な8時間を過ごす。これが丸二日間続く。
しかし、どう頭をひねっても統計学の正解が浮かんでこない。というよりも、正解が有るとは思えないような問題だったと記憶してる。仕方無しに、持っている知識を総動員し、組み合わせ問題にアプローチ。自分なりの方法論で問題解決に挑む。しかし、もちろん、初日を終えたときは「もうだめだー」と奈落の底に落ちた心境。
試験第2日目。これは自分の最も得意とする分野のスポーツサイエンスであるだけ結構余裕だった。
一週間後の口頭試問までの間、不安な日々を過ごす。
口頭試問では、筆記でカバーできなかった知識を、実際にコミティー(私一人に対して6名に教授が指導的立場に就くのです)の教授方に囲まれて1対6での集団いじめ(笑)。愕然としたのは統計学部の教授が「あれは、解くことができない問題なんだ」との一言。何しろ、方法論が存在しない問題にどうアプローチするのかが見たかったとのこと。「意地悪!先に言ってよ・・・」。そうだったら、どれだけ精神的に楽だったか・・・
そういえば、修士論文の発表のときも大学院の代表の偉い教授が私の発表中、一度も私から目を離さない。ずーっと「じーっ」と私の目を見ている。発表している本人は、心臓バクバク。後から聞いたら前日のテレビの特集で「話し手の目を見ていると次に何を話すかが分かる」というのをやっていたらしく、それが外国人にも当てはまるのかを知りたかったとのこと。「先に言ってよ・・・」。結論は、「予測できなかった」とのことです。まあ、そんなお茶目で、好奇心の固まりの人々でないと、アメリカの大学の教授にはなれないのでしょうな。余談でした。
ということで、無事にPrelimExamをパス。
一路、博士論文だけの毎日へ。
結局論文に費やした日々3年。600ページ余に及ぶ論文を(もちろん長ければ良いというわけでは決して無いが・・・・・)書き直しのたびに担当教授の方々に全てコピーをお渡ししなければならないのには閉口した(全くエコじゃなかったな。今は、きっとメールでファイルを送ればいいのかな・・・?)。
論文のDefense当日。教授の方々に囲まれておよそ1時間30分のDefenseを終えて、教授の方々だけが部屋に残り、私は一人廊下へ出され待つこと20分。主任教授のDr.GeraldSmithがドアーをあけ”CongratulationsDr.Fujimoto”と口にしながら握手を求めてきてくれた。あの瞬間は、これから先の人生決して忘れることは無い感動の一瞬だった。
1995年2月、晴れてDr.KoichiroFujimotoになった。
その後半年間、OregonStateUniversityで客員研究員の肩書きをいただき、研究と学生の指導に当たる。
Post-DoctoralFellowshipResearchのオファーをPennsylvaniaStateUniversityからいただき、ロシアNo.1と呼ばれるDr.ZatsiorskyとアメリカNo.1と言われるDr.Nelsonのもとで、人間の動作を研究する新しい継続的分析を可能にする統計的手法の研究を一年間させていただいた。
研究に勤しんだ経験よりも、ロシアNo.1、いや、もしかしたら世界No.1といっても過言ではないDr.VladimirZatsiorskyが修士課程に在籍する学生の研究発表で、多くの学生が在席する中、挙手をして「分からないから説明をしてください」と言う姿を見て、鳥肌が立った。
あれだけの人物が謙虚に「分からない」ということを学生の前で言える姿を見て、私はいつかああなりたいと心から思った。聞きかじりでものを言っているのに「何でも知っている」態度をしている人が多いこの世の中で、分からないことは分からない、知らないことは知らない、しかし、知っていることは懇切丁寧に人に伝えることができる人になりたいと思った。そして、できることならば、「分からない」「知らないことを」分かる、知る努力をしたいと思う。
その後、ArizonaStateUniversityで客員研究員を務め1997年8月に帰国。
日本の大学の研究室からも多数お誘いを受けたが、いまいち乗り気にならず、悩める一般ゴルファーの方々に学んできた知識を活用しようと、ゴルフ界に身を置いた。
帰国後、雑誌の連載やレッスンをしながら某メーカーのゴルフクラブ開発を2年余任される。もともと、物理的にはゴルフクラブのバランスシステムは全く有効性が無いので、根本的解決を目指す。これが、今日のGolfin’Dawnのクラブの理念のベースになっている。
知的所有権が厳重に確立されたアカデミアから全く存在しないゴルフ業界へ。これにはいまだに馴染めない。きちんと自分で研究してきたことを勝手に自分のことのように言ってしまうのは私にとっては最大の罪。これが横行する。しかも、理論的に絶対に共存しないことが取ってつけたようにレッスン書の中では仲良く並んでいる。残念ながらレッスン書を作っている人はそれを教科書とはみなしていないし、それを読んで勉強したレッスンプロは、レッスン書を鵜呑みにして、聞きかじりの”理論”を”わが知識”であるかのように吹聴してまわる。もちろん、殆どのインストラクターが一時期はトーナメントプロを目指してゴルフ練習に勤しんだ過去があるから、ボールを打つのはそこそこ上手い。なので、一般ゴルファーにははったりが効く。でも、現実問題として自分がボールを打つことと、人に動作を教えることは全くの別物。この悪のスパイラルは今も手を替え品を替え継続中である。
それを知らずに一生懸命何十年もがんばり、できないと己の能力の無さと悲観する一般ゴルファーの方々に、何とか私の知っていること、分かっていることを生涯をかけて伝えたい。
1999年、厚木ゴルフプラザのご厚意をいただき、PMAゴルフアカデミーを開始。
Waggle別冊、「強いゴルフを作る本」、ぶんか社「スウィングは2拍子で振れ」、高橋書店「ボディーターンの新セオリー」著作。
その後、MKゴルフデザインのお世話になりDr.コーイチローのゴルフクリニック、JALアカデミーゴルフクリニックを開催。長年連載をさせていただいたゴルフクラシックの連載をまとめ日本文化出版社「キックザセオリー」著作。
ゴルフメディアとは最近トンとご無沙汰だが、何でも写真の形に当てはめ、部分部分の説明をすることがゴルフなんだという前提で考える媒体なので、科学的には全く理にかなわないので、また、一所懸命説明したところで、「ああ、それって誰々の何々と同じ事でしょ?」と、すべてを見開き2ページ1項目のフォーマットに押し込めようとするので、全くお話が通じないので現在ゴルフ媒体でないところでの爆弾投下を模索中。
実際、2次元媒体にはかなり大きな制約があるので、本当のところを伝えるには、非常に難しい媒体であることは否めないと(個人的には)痛感している。
私が持っているもっと大きな憤りは、ゴルファーは難しいことを読んでも解らないという、作り手側の勝手な思い込みなのです。
もう一つの問題は、多くの一般のゴルファーの方々がそうした媒体のプレゼンテーションのフォーマットに当てはめてゴルフを理解することしかできくなってしまっているということ。
Face to faceでキチンとお話をして伝えても、結局理解の過程で、見開き2ページ1項目のフォーマットに落としこむことが癖になっていて、それになんの疑問を感じていないゴルファーが異常に多いのです。これは明らかにゴルフメディアの大きな責任です。
仕事や他のことならばすごく頭の切れる人でも、ひとたびゴルフの話になると、全く理解力がなくなってしまうから不思議です。そして、それに気づきもしないことは、もっと大きな問題なのです。なぜなら、気づかないことは解決できないから・・・
で、ゴルフメディアではなく、ビジネスメディアにお話を持って行っても、結局のところ、ゴルフの本というだけで、編集者や社長さんがゴルフをなさると、その方のゴルフのレベルでの判断になってしまうという、皆がわかった気になってしまっている非常に歪んだ世界だと理解している。中に入ってしまっていると、解らなくなってしまうのが非常に怖いですね。
しかし、一般のゴルファーの中にはとても素晴らし感性を持っていらして、キチンと説明を咀嚼し、自分自身のものとする方も少なくないのが現実です。
このホームページの目的は、ゴルフ上達に真摯に取り組むゴルファーの皆さんに、真実が何であるかを気づいていただくこと。そして、自分自身のゴルフスタイルの確立に邁進して行っていただくお手伝いをすること。
好きな言葉は、「夢は大きく、目標は小さく」、「凡事徹底」、「誰にでもできることを、誰よりもきちんとやる」。
ああ、「急がば回れ」もあるな・・・・
一つ一つ積み重ねれば、必ず夢は達成できると信じている。
私はアップテンポにできることを全力でやるのが大好きだ。「できるだけ」は本当の意味での100%の自分を費やすこと。
仕事も、人生も、夫婦関係も。明日死んでも悔いの無いように生きたい。